天津市は中国中央政府の4大直轄都市のひとつ (他は、北京、上海、重慶) であり、中国渤海湾に国際港を持ち、華北地方の経済・貿易の中心地である。人口は、1,561.83万人(2020年現在)で、世界で5番目に人口の多い都市である。 郊外には、万里の長城など景色の美しい所もあり、産物が豊富である。また、地方色豊かな文化 (天津凧、年画等) を持ち、地方的な風習も残っている。歴史的な遺跡もあり、観光都市として整備されつつある。そして、華北第一の国際港都市として現在も発展し続けている。
1.天津の地理的な位置
天津市は北緯38度34分、東経116度42分の位置にある。中国の華北平原の東北部に位置する。市の西北部に燕山が聳え立ち、東南部は渤海に接している。面積の95%が華北平原で、残りの5%は低い山地と丘陵である。地形は西北から東北にかけて次第に低くなっていて、塵取り形の傾斜地になっている。南運河、北運河、子牙河、大清河、永定河の5つの支流が、天津郊外で合流し、全長72㎞の海河となり、市内を通り渤海湾に流れている。 天津市は南北の長さが186㎞、東西の広さが101㎞である。周囲との境界線の長さが900㎞もある。それに海岸線の長さが約133㎞ある。総面積が11.305平方キロメートル (ほぼ秋田県と同じ) である。現在、13の市街地と5つの県 (薊県、武清県、静海県、宝・県、寧河県) からなる。 天津市は北京市の東南120キロの所に位置し、天津、塘沽、新港の3つの港を持ち、中国の首都北京の玄関口になっている。天津と北京間は、鉄道や高速道路によって結ばれている。
2.天津の地形
天津市は、古代は果てしない大海であった。最初に大陸となったのが、蘚県あたりの燕山山脈である。地層が強烈に動き出したため、約19.5億年前に山脈が高く持ち上がり、海水が去り、後に隆起と沈没が繰り返してできた。今から7500年前の新石器時代に、ある強烈な陸地の沈没を経て、現在の天津地域北部、西部の陸地が形成されたのである。 この時期に古黄河 が3回にわたり北に移動し、天津辺りで海に流れ込んでいた。この古黄河についての最初の記載は、3500年前の夏・商時代であり、最後の一回は掴卜純煕11年である。古黄河には大量の泥砂が含まれており、天津から海に流れ込んでいた。このため天津地域に沖積平原の形成に大きな役割を果たした。
漢・唐の時代に、海河が軍糧城辺りで海に流れ込み、天津周辺の平原が基本的に形成された。
3.天津の歴史
天津市の原住人については、最も早期に蘚県の南麓に集落が出現したと考えられている。現在の蘚県、宝梟県、北辰区でそれぞれ新石器時代の遺跡が発見されている。 1977年に武青県高村郷蘭城村近くで東漢初期頃の墓が発掘され、1982年に静海県東眠頭村で東漢晩期の三つの墓が発掘された。また、天津地域内で三つの古城も発見されている。 天津市は隋王朝の大運河開通と共に形成された。608年に隋の帝が160万人を徴集し、運河の整備に当たらせ南北運河の水路の交通が開けた。海河、惨河、黄河、長江を結び付け天津が南北水陸運送の港になった。1213年前後に、金王朝が三雅河口で直沽村落を設置した。これが天津市の始まりとなった。元王朝時は海津鎮と名を改めた。正式に「天津」と命名したのは明王朝になってからである。 明王朝の太祖朱元璋が都を南京にし四番目の皇太子を燕王に立て北京を守備させた。洪武31年 (紀元1398年) 朱元が病死し、その孫に帝位を継がせたため燕王が反乱を起こした。彼は“靖難の役”という戦争を起こし、兵隊を率いて北運河に沿って南に下り直沽を渡り、昼夜に関わらず軍隊を走らせた。
1402年、南京を征服し覇権を奪い取ったその時から都を北京にした。天津と言う名は、当時燕王が兵を率い“直沽を渡り”南下する際に授けてくれた名である。近年に出土した『三官廟碑を修理し直すこと記す』の碑文には成祖文皇帝が天津という名を授けたことを記載している。
1404年「天子の津」であったことを記念して「天津衛」(天子の渡し場という意味の軍事基地) が設けられた。これが天津の名のはじめである。「衛」とは明代において、5600人規模の軍隊編成をさす。それだけの規模の軍隊が駐屯する城がこの地に築かれ「衛」は天津の略称にもなった。また、天津は北京に至る重要な門戸であったことから、別名「津門」とも呼ばれた。明、清両代南方からの物資 輸送はもっぱら大運河が利用され、天津は商業都市として繁栄した。
近代天津は、北京の外港として国際的にも重要な地位を占めるにいたった。アロー戦争後に結ばれた北京条約 (1860年) によって、天津は開港を余儀なくされた。英・米・仏・独・日本が次々と租界を獲得した。義和団事変後ロシア・ベルギー・イタリア・オーストラリアも租界を獲得した。一地域に9カ国の租界が存在したのは天津だけであった。また中国の近代化をめざした洋務運動の中心の一つとなり、北洋学堂、天津機器局などが19世紀末創設された。
1949年、中華人民共和国の成立により租界は完全に消滅した。同時に天津は、中央直轄都市となる。建国後、新港の建設や水利工事が行われた。1976年に発生した唐山地震では大被害を受け、市街地の67%の住宅が被災した。その後住宅 建設と都市計画に力を入れ、84年には沿岸開放都市に指定され、塘沽区には経済 技術開発区が建設されている。
4.天津の文化、宗教、習慣
天津市には約1300万人が住み、民族は漢民族、回民族、朝鮮族、満州族、蒙古族、チワン族等の民族がくらしている。そのうち漢民族が大半を占めている。回民族は清真寺を中心として住んでいる。イスラム料理の店も多くあり戒律を守って生活している。
市内には仏教の大悲院や、キリスト教の老西開教堂、古くから信仰されてきた海運の守り神が祀られた天后宮など多くの宗教建築があり、観光名所にもなっている。宗教的な制約はほとんどないが、儒教的、道教的な習わしを大切にする人が多くおり、生活の中に根付いている。
天津の人たちはおおらかで日本人に好意的な人が多い。新しいものが好きで、積極的に新しい技術を取り入れている。デジタル技術の進化のスピードなどは目を見張るものがある。
水上公園の近くに周恩来記念館が1998年に開館し中国の近代化の歴史を参観することができる。
5.天津の経済
天津は中国北方最大の商業・貿易の中心である。新港のコンテナ取扱量は、全国第1位。1992年商品の国内への出荷額が225.4億元であり、販売総額が239.9億元である。それぞれ1980年に比べ1.61倍及び3倍に増加した。 天津では、鋼鉄原料、石油化工、鋼材、紡績、自動車、石炭、畜産が発展している。工業では、旋盤、自転車、自動車、船舶などの機械工業が25%を占め、紡織工業が15%、化学工業が15%という構成となっている。農業では、小麦、米、トウモロコシ、イモ類、綿花、落花生、大豆などを産する。米は、明代から栽培されており、北方の重要産地である。渤海湾沿岸には、油田や塩田がある。
市内では商業機能が高まり大手デパート、スーパーが建てられショッピングの環境が整えられている。日本の企業もたくさん進出しており、3000人を越す日本人が生活している。
6.天津の言語
言語は一般的に北京語に近い。天津の人々は、天津訛り(特にアクセントが異なる)があり、簡略化して話すことが多い。
7.天津の気候、風土
①気候、風土
天津は温暖、大陸の季節風型気候であり、四季がはっきりしているが、雨は年間通じて少ない。 薊県の山林地域を除けば、年間の平均気温が11℃以上である。一番寒い月の気温が-4℃から-10℃である。一番暑い月の平均気温が36℃前後である。1月と7月の温度差が40℃前後である。天津の春は短く50日間位であり、夏が100日間位ある。秋は55日間位であり、冬が最も長く160日間位である。
天津の風の向きは季節によって変わる。春と秋には主に西南からであり、夏は主に東南から、或いは南風である。冬は西北、或いは偏西風である。無霜期が平均して204日間である。年間の日照時間が平均して2600から2800時間である。
②上記に伴う医療・生活必需品
■ 衣料について 夏は大変暑く日本の夏の生活と変わりがない。湿度が低くベタベタした感じはしない。衣類は、日本と同じもので良いと思われる。 冬はマイナスの気温である日が多く、外出のときは手袋、帽子、下着の重ね着、厚手のコートが必要である。日本の暖かい地方から来津する場合には、こちらで防寒衣類を購入するようになると思われる。
■ 生活必需品 天津においては季節にあった衣料品、生活必需品は豊富であり、最近はデザインのよいものやメーカー品が日本より安く購入することができるようになった。ブランドにこだわらなければ、不自由することはない。
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